2015年7月25日土曜日

2015年7月22日韓国語説教 “奥深い信仰”  堕落した“韓鶴子集団”になってしまいました。

2015년 7월 22일 '심오한 신앙'

 韓氏オモニが神になろうとして、天のお父様が天の父母様となり、本人が神に、女神になろうとした、そのような堕落の行為を見ていきました。そして堕落した憲法からは原理講論も外され、韓氏オモニの根本の位置、対象の位置を外れ、主体として自分が神、メシア、独生女になろうとしているのを私たちは見ました。

 私たちは原理の立場から、お父様を考えて見るときに、善悪を区別するのはとても簡単です。 韓氏族は堕落した血統、サタンの血統です。何故ですか?メシアの血統以外はすべて堕落した血統だからです。メシアは真の血統を持ってきた方です。真の血統、神様の血統を持ってこられた方です。 神との関係で一番重要な儀式である祝福契約式にメシアの名前を消してしまい、堕落したサタンの血統、韓氏の名前を祝福指輪に刻みました。

 このような内容をみれば、堕落した韓氏オモニが完全に“韓鶴子集団”を作ったということに気づきます。堕落した“韓鶴子集団”になってしまいました。
このような話は聞きたくない内容でしょうが事実です。神の息子娘は善悪を分離することを知らないといけません。

2015年7月22日 奥深い信仰




2015年7月22日 奥深い信仰 from TeamAx on Vimeo韓国語説教 日本語字幕



食口の皆さん、こんにちは。一週間があっという間ですね。
今日は“奥深い信仰”について礼拝を捧げ勉強してみましょう。


今日の聖書はヘブライ人への手紙11章1節から6節まで
1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
4 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。


今日、私たちはこれに深く入って行きたいと思います。
ヘブライ人への手紙11章1節から6章のところで韓国の聖書では信仰を믿음(ミドゥム/信頼、信じる心)として翻訳しています。聖書の原語ではPistisです。Pistisの内容は믿음(ミドゥム/信頼、信じる心)ではありません。韓国の聖書では間違って翻訳しました。믿음(ミドゥム/信頼、信じる心)ではなく“신앙/信仰”です。


さらに奥深く入っていきましょう。
私たちの統一家の現実を見ると、韓氏オモニが堕落して天使長たちとひとつになることによってすべてのことを変えていったことを見ていくとすべて連結されていますお父様の天聖経を80%まで変えて編集削除しました。そしてお父様が興南刑務所で血を流しながら作られた、血の天一国国歌も変えられました。あのような困難な中でも神様に栄光をお返ししようとする勇士の、素晴らしい神様の息子の愛の歌を変えられました。家庭盟誓も祝福式も変わり、祝福自体も変わりました。今や、偽りの祝福となりました。


韓氏オモニが神になろうとして、天のお父様が天の父母様となり、本人が神に、女神になろうとした、そのような堕落の行為を見ていきました。そして堕落した憲法からは原理講論も外され、韓氏オモニの根本の位置、対象の位置を外れ、主体として自分が神、メシア、独生女になろうとしているのを私たちは見ました。そして 韓氏族の血統をメシアの血統として、メシアの上にもちあげました。そのようにして皆さんがご覧になっているように3年前に、そして今年もお父様の席に座りました。対象が主体だと錯覚する韓氏オモニとなりました。


完全にお父様が去ってしまった韓氏オモニ。お父様の玉座に座る堕落した行為を私たちは見ることができます。また、ここに(写真を見ながら)偽りの詐欺師たちが何も言わずに拍手だけしています。


(指輪の写真を見ながら)私たちもこれをよく知らなかったのですが、ある食口が、自分の祝福式の指輪だと見せてくれながら、偽りの失敗の基元節に作られた祝福指輪、これは神様の祝福の契約を象徴する指輪、私たちが神様と永遠の関係を結ぶ指輪、2013年堕落した失敗した基元節に指輪を作ったのですが、これには再臨主、メシアであるお父様の“文鮮明”の名前も削除してしまいました。この指輪には韓鶴子、 韓氏オモニの名前だけ刻まれています。このような内容を見ながらも多くの人たちは詐欺師たちの話だけ聞いて愚かに陥ってしまいました。


しかし、私たちは原理の立場から、お父様を考えて見るときに、善悪を区別するのはとても簡単です。 韓氏族は堕落した血統、サタンの血統です。何故ですか?メシアの血統以外はすべて堕落した血統だからです。メシアは真の血統を持ってきた方です。真の血統、神様の血統を持ってこられた方です。 神との関係で一番重要な儀式である祝福契約式にメシアの名前を消してしまい、堕落したサタンの血統、韓氏の名前を祝福指輪に刻みました。


愚かな人たちは何の考えもなくその指輪をはめて、何故ずっと運が悪くなっていくのかを知りません。何故ずっと滅びていっているのか知りません。堕落した血統と堕落した祝福契約のためにそうなっているのです。


私たちはお父様に帰っていかなければ地獄に行きます。地獄とは何ですか?
神様と分離された生き方をすることです。何故?霊界に行けば神様の愛が空気だから。私たちは神様なしでは呼吸することができないようなものです。ですから霊界、永遠の人生では神様と分離されて生きるので空気がないのと同じような人生を送るのです。それは地獄でしょう。すさまじい苦痛の人生です。


そのような詐欺師たちの偽りの内容を聞きながら、食口たちが幼稚園児のように愚かになってしまいました。善悪を分離できないほどに愚かに陥ってしまいました。
しかし、真の父母様の後継者、代身者が私の責任なので 心苦しくとも勇気を持って善悪分離することで、食口たちが少しづつ目覚めてきています。


これは私たちの責任です。お父様と分離された生き方をすれば呪われるようになります。地獄に行きます。キリストがいない生き方をすれば空気がないところで生きるような生き方になります。永遠の苦痛です。何故?愛のない人生。友達と親しく生きる人生はあっても、永遠の深い愛はありえません。真の愛。根本の大きな愛に触ることができません。


このような内容をみれば、堕落した韓氏オモニが完全に“韓鶴子集団”を作った
ということに気づきます。堕落した“韓鶴子集団”になってしまいました。
このような話は聞きたくない内容でしょうが事実です。神の息子娘は善悪を分離することを知らないといけません。


(指輪の写真を指しながら)これは一体何ですか?皆さん、韓国語を読めるでしょう?どうして永遠の祝福の契約に、お父様が残されたものを変えただけでなく、堕落したサタンの血統を刻みました。皆さんがはめているサタンの契約の指輪に。ちゃんと考えなさい!考えてみなさい!皆さんの永遠の命をどこに置いていますか?誰の下に?メシアの下に置いているのですか?でなければ堕落したサタンの血統の下に置いているのですか?
 
もうすでに6ヶ月過ぎたでしょう?私が6ヶ月前から話し始めて。
初め、このような内容を話し始めたときは皆、批判したでしょう?しかし皆さんの目の前にある証拠を見ても善悪を分離できていないという事実を思えば、皆さんも堕落した人たちです。あまりにも簡単です。お父様がここにいらっしゃったならば、これを許したでしょうか?


人は神様に対する尊貴と愛がなければ神様を畏れることができません。
ソロモンを考えてみてください。知恵の根本、始点は何ですか?
神様を敬畏すること。恐怖の神ということでなく、神がどれほど偉大な方であられるのか知っていること。そして、もしこの方がいらっしゃらなければ、私がどうして生きていけるだろうか、そのような畏れ。それが知恵です。愚か者から知恵ある者に成長されることを願います。私たちは今、愚かさから抜け出さなければなりません。今はとても明快に見ることができます。お父様の下にまた戻ってこないといけません。


このような内容を見たときに、多くの人たちは『いや、どうしてそのようになれるだろうかか?』『真のお母様がどうして堕落するだろうか?』と尋ねるかもしれません。
ですから私たちは一度、分析してみないといけません。


韓氏オモニが魂の苦悩があった時にどのようにされたのでしょうか?
どのように消化されたのでしょうか?これが本当に重要です。 韓氏オモニの信じることと信仰が揺れたとき、魂の苦悩があった時にどのようにされたのか、信じることと信仰を区分できたのか? どのように越えていかれたのか?この問題を知ることがとても重要です。


辞書を見れば“信仰”に対してどのように出ているでしょうか?
・強く信じること、または何かを強く信頼すること。
・神の存在に対して信ずること。確固たる宗教的な信念。
・体系化した宗教的な信念


信仰について“信仰=信じること、信仰は信じることだ”と私たちは 本来、考えてきました。そうでしょう? 魂の苦悩があった時に私たちはどのように信仰と信じることを区分できるでしょうか?また魂の苦悩があったとき、「神様、私が間違っていましたか?私が何かいけなかったから、このような苦痛の中にいるのでしょうか?」と尋ねるのではないでしょうか?私がよくやったときは神の慰労と賞賛を受けるが、今は自分がいけなかったから魂の苦悩を受けた、そう思うということです。ですから私たちはその答えを探してみないといけません。


信じることと信仰の違いを探して見ましょう。信じることと信仰は同じものでしょうか?皆さんもご存知のようにお父様が日曜礼拝の先生だったときに、カルビンの影響を受けた教会で先生をしたのですが、カルビンは信仰についてどのように説明したでしょうか?


読んでみましょう。
信仰とは“神様が願われる摂理の意思”を信仰者たちが知れるように導いてくれる。
したがって、信仰と“神が願われる摂理の意思”は聖書の言葉と直接的な関連性を持つ。


ですから“神の願われる摂理の意思を知れるようにならないといけません。神の願われる意思を知ることも信仰のひとつだということを発見しました。旧約聖書のギリシャ聖書では信仰(Faith)と信じること(belief)は区分して話します。しかし、韓国聖書では신앙(信仰/Faith)と믿음(信じること/belief)を同じ単語、すなわち、믿음(信じること/belief)として翻訳しました。例をあげると、コリント人への手紙13章では Faith、hope&Loveを믿음(信じること)と希望と愛と翻訳しました。しかし、ギリシャ聖書を基に正しくしようとすればこれは”신앙(信仰)と希望と愛“にならなければなりません。なぜならば、ギリシャ聖書ではFaith((신앙/信仰)という単語をここに使ったからです。


신앙/信仰”と“믿음/信じること”は厳然たる違いがあります。
韓国の聖書ではいつも“믿음/信じること”を使いますが違います。 Faithを使えばそれは“신앙/信仰”です。“신앙/信仰”と“믿음/信じること”の違いは何か一度調べてみましょう。
信仰とはいつでも神から出てきて受けるものであり、私たちが生み出すのではない。


私たちがひたすら信じれば、信仰すれば神様がこのようにしてくださるだろう、などと考えます。私が信仰を生み出せば、と普通そう考えるでしょう。これは全くの間違いです。ですから葛藤が沸いてきたときに、自分の目の前に、韓氏族の堕落した状況を見ても区分できません。信じることだけしてきましたから。信仰とは何であるか知りませんでしたから。


믿음/信じること”と“신앙/信仰”の区分は何ですか?
信仰とはいつでも神様からくるのです。信仰とは私たちが生み出すものではありません。もっと易しく言うと、神様を信じることは私たちの5%で責任を持ちます。
信仰はいつでも神様からくるのです。


ローマ人への手紙12章3節を見てみましょう。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言う。思うべき限度を超えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰のはかりに従って、つつしみ深く思うべきである。


神が各自に分け与えてくださった信仰、私たちが生み出したものではありません。


次にエペソ人への手紙2章8節から9節を見てみましょう。
あなた方の救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方から出たものではなく、神の賜物である。


“信仰とはあなた方から出たものではありません。”この言葉がまさに正しく出ていますね。私たちから出てくるものではありません。私たちが一生懸命修行して悟るものではありません。それは、あなた方から出たものではなく、神様からの賜物である。”信じることではありません。信仰です。信仰は神様からの賜物ですひとつの知恵でもあります。どんな知恵かというと神様の願われる意思を知る知恵。


信仰という言葉のギリシャ語は「説得すること」という意味です。神様が私たちを説得される必要はありません。しかし、神様は私たちを愛されているので賜物としてくださるキリストを通して私たちを説得されます。信仰は私たちが作るのではなく、神様の願われる意思を賜物として受け取っているものなのです。


これが理解しがたいならば、例をあげると、ここに滝があれば、私たちがこの滝水をつかんで信仰を作るのではなく、手のひらを広げて滝水を受けるものだ。賜物として。私が作るものではなく受け取るものです。
また、信じることはドアをノックすることです。信仰は賜物ですから神様がドアを開け私たちを受け入れてくださることが信仰の賜物です。
大きな違いがあります。信じることが私たちの責任です。5%の責任分担。信仰を受けることは95%の神の賜物を受けることです。このことを深く考えてみないといけません。


チャールズプライスという神学者の信仰と信じることに関してどのように説明しましたか?見てみましょう。
私達は、信仰を観念にしてしまった。しかし信仰とは恵みとして与えられたものである。私たちが信仰を持てる唯一の道は神様が与えてくださった時にだけ可能なのだ。


信仰は私たちの中で生み出すことはできない。信仰は私たちが努力して受けるものではない。私たちが神様との契約を信じているといいながら、それにふさわしい信仰を持たないということは話にならない。忠実に聖書に基盤を置いた信仰は、“なされることを信じる”ではありません。


むしろ、その反対に“すでになされたと信じます”という忠実な心情から出てくる深い自覚です。ただ神様だけがくださることのできるものがまさに信仰です。神様が導こうとされるところへ行くことに抵抗しないでください。皆さんは私たちの信じるということを信仰心と呼ぶ間違いを犯さないでください。主は生きた御言葉であり、私たちを完全なものにしてくださるお方である。   - チャールズプライス 真の信仰


多くの統一教会員を見るときに、自分たちが努力して信仰したものと考えています。そうではないですか?自分を正直に見てみればどうですか?私が努力して信仰生活をした。そう思っているでしょう?でもそれは信仰ではありません。それは믿음(信じること)です。信じることは私たちがやっていかなければならない責任分担ですが、信仰はいつも神様からくるものです。


この内容も一度見てみましょう。
ヘブライ人への手紙11章1節から6節
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。


信仰がなくては、神様を喜ばせてさしあげられない。信じることで私たちは5%の責任分担を果たしますが、最後に信仰がやってくるのはいつでしょうか?神様と出会ったときです。神様を体験したとき私たちの信じたことが信仰に変わります。賜物に。キリスト出会ってこそ信仰が顕れます。統一教会員たちを見てみても、信じている人たちは多くても、お父様の神霊を直接体験して、その信じたことが信仰に変わっていった人、そのような生き方をしている人たちは数人しかいないでしょう。一生懸命信じて信仰を啓発するのではありません。信じることで神様に出会える位置を備えてください。私たちの5%の責任分担を果たすことによって、神様が私たちに触れるときに、聖霊を降り注いでくださるときに、信じたことが信仰に昇華するようになります。


原理講論の24ページを見てみましょう。
今まで神を信ずる信徒達が罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うことがなかったからである。
神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄へ引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。


統一教会員も同じです。信仰が観念的になってしまいました。お父様の聖霊と共に生き、お父様が私たちを導いてくださるならば、聖霊に充満された人生になります。私たちの霊的五感が開かれ霊界と霊通でき、お父様が私たちを用いられて生きていけます。観念ではありません。私がこの内容を信じます、これが信仰ではありません。それはただ信じていることです。信仰とは、お父様に出会い実感して聖霊に充満した人生を生きるときに信仰だということを悟ってくださることを願います。


次に、マタイによる福音書8章5節から10節までを見てみましょう。
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられた時、ある百卒長がみもとに来て訴えて言った。「主よ、私の僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています。」イエスは彼に、「私が行って治してあげよう。」と言われた。


そこで百卒長は答えて言った、「主よ、私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕は治ります。私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵卒がいまして、一人のものに「行け」と言えば行き、他の者に「来い」と言えば来ますし、また、僕に、「これをせよ」と言えば、してくれるのです。」


イエスはこれを聞いて非情に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエルの人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」 


この内容は何ですか? 百卒長がイエス様を訪ねて行ったとき、イエスに出会えば私の僕は治してもらえると信じて行きました。イエス様に出会ったことで「お越しくださらなくとも、ただ、み言葉をください、そうすれば僕は治ります。」といい、イエス様は「これほどの信仰を見たことがない。」 と言いました。この瞬間で百卒長の信じたことは信仰に変わったのです。キリストに出会うことで信仰に変わったのです。


次にマタイによる福音書9章20節から22節を見てみましょう。


するとその時、12年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスの後ろから衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、治していただけるだろう、と心の中で思っていたからである。


イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女は、その時にいやされた。


お前の5%の믿음(信念)と95%の賜物である神様からくる信仰がお前を治したのだ。皆さんはこの信念と信仰の微妙な違いを知るようになれば、皆さんの人生がまったく変わるものと信じます。


ローマ人への手紙9章を見てみましょう。
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」


神様がくださった賜物である信仰によらず、自分たちの行い、一生懸命信仰しているから神様は感動しないといけないという傲慢さ。イスラエルはこのために堕落したことを見ることができます。


ガラテヤ人への手紙3章21節から22節を見てみましょう。
では、律法は神の約束と相いれないものなのか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義は確かに律法によって実現されたであろう。


しかし、約束が、信じる人々にイエスキリストに対する信仰によって与えられる為に、聖書は全ての人を罪の下に閉じ込めたのである。


キリストに対する信仰によって、約束を信じる者たちに与えられるです。信仰を与えようとされるのです。私の努力によって作り上げるものではありません。私が神様を精誠こめてひたすらに追及するようになれば、神様が決定される瞬間、私に触れられたら、その信じたことが信仰の賜物になるのです。


その賜物によって私は絶対信仰、絶対愛、絶対服従できるスタートラインに立てるわけです。ですから私たちは神様に出会わなければなりません。お父様の聖霊に出会わなければなりません。そうすれば私たちの信じたことが信仰に変わっていけます。


私は覚えています。韓氏オモニは、数十年間、偽りの詐欺師たちの話だけ聞いて、お父様が困難なことを与えられるたびに、子供たちに「お父様は何故私にこうするんだろうか」「私がどれほど大変か知っているか?」いつもこのようにされ続けました。


このような習慣をつくったのです。もちろん私たちは何も言いませんでした。これは裏で言われていた内容でしたから。オモニを保護したかったから。数十年間、私たちを育てながら、お父様がオモニを困難な状況に置かれてしたがっていくことが大変なたびに「お父様は、何故これほどまで私を苦しめるのか?」いつもこれでした。
このような文化をつくったから教会に悪い文化ができました。


お父様の一番重要な対象がそのような文化を創れば、それが反復されていったら、お父様を見れば皆が「お父様は悪い人だ、私たちを苦しめる人だ」と考えるしかありません。キリストの夫人、長の責任は困難な時でもいつもキリストを高めなければなりません。お父様は平安とすべてのさまざまな贅沢な環境を与えてくださったのに。


お父様は個人的な用事ではなく、全ての食口たちを生かそうと、一人ひとりを生かそうと12時間20時間とお話されたのですが、(お母様は)あぁ、(お父様は)また約束を守られなかった、私はまた一人で食事して眠らないといけないと考えました。


このように魂の苦悩があるたびに、韓氏オモニがどのような習慣を作ったかというと
「お父様が私を苦しめている」と考える習慣。私を中心として考える習慣。
キリストの夫人、新婦の長の立場でありながら「自分がとても大変だ」と考える文化。ですから真の家庭もそのような偽りの文化を学びました。「あぁ、自分はとても大変だ。苦しい。」という偽りの文化。そして2世たちも幹部たちも偽りの文化を学びました。わかりやすく言えば、内密にお父様を刺して批判している文化。キリストを憎んでいる文化。


ですからメシアが聖和された後に堕落して何の考えもなくついていくようになったのです。信じることと信仰は違うのです。「こんな自分はとても可哀想だ。私をいつも苦しめるから。このように成功したのは、食口たちが従ってくるのは実はお父様のためではない。お父様は悪い人だから。私のためだ。私が苦しくても耐えて耐えて陰で整理するから食口たちが残ってついていくのだ」このように錯覚するようになりました。


「私は可哀想だ、私は可哀想だ、私は可哀想だ」この考えから、 私のゆえに食口たちが私についてきたのだ。このように考えてしまったのです。そのようにしてどうなりますか?サタンの主管になります。そうして、お父様は実は必要ない、事実、私がメシアだった。そのようになったのです。


私たちはこれを見極めることができないといけません。何故なら私たちはこうなってはいけないからです。特に女性たちは!女性たちは韓氏オモニの堕落を見ながら、私はこのような道をついて行ってはいけない、侮辱され永遠に呪われる道だということを悟らなければなりません。


ですから私たちは人生で魂の苦悩が現れるようになります。これは保証します。100%保証します。魂の苦悩が現れるようになります。
皆さん、私たちは可哀想なので来たのではありません。魂の苦悩は皆に来ます。魂の苦悩が訪れたときに、神様に「神様、私は何がいけなくてこのような苦悩の中にいますか?」このような問いかけは正しい質問ではありません。正しい質問は何ですか?
「私が魂の苦悩が来たときに神様はどうされますか?」「神様は私に何を見せたいと思っているのでしょうか?」「何をされようとしているのですか?私は知りたいです。」


アビラのテレサは、有名な修道女だったでしょう。彼女は数百年前にこのように書きました。魂の苦悩がやってきた時は雑草を抜く時ではないと言いました。庭園の中に入って庭師(=イエス様、キリスト)と共に庭園に入っていき、雑草を抜くのではなく、庭師に雑草について学ぶ時間だ。庭師(=主)に雑草について尋ねて見て学び、その後で雑草を抜かないといけないでしょう。 自分で雑草を抜くのではなく、まず主に導かれて私の魂の苦悩の中で私に見えていない雑草を学び分析したら、それを知って抜き取ることができるようになります。


このような魂の苦悩の試練の中で、皆さんは何かやろうとしないでください。
自分の中から信仰を啓発しようとしたらいけません。間違っています。成功しません。魂の苦悩からは出てきません。信仰は作れません。何かを作ろうとしないでください。魂の苦悩の中で、闇夜の中にいるときにその音を聞かないといけません。神様はどのように私を導かれようとしているのか。


たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがたわたしと共におられるからです。詩篇23篇です。


死の丘を歩んでいても、私たちから出てくる信仰を啓発しようとしてはいけません。神様が私たちに何を見せて下さろうとしているいるのか、神様によらないといけません。そうすれば神様が私たちに新しい信仰の賜物をくださる時間になるでしょう。


コリント人へ第二の手紙12章9節には、
「私の力は弱いところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。


私たちは弱いときに能力を強くしようとすれば失敗します。信仰の賜物を受け取れません。私たちが魂の苦悩の中にいる、弱い時に神様が導いてくださることを感じて追求し、神様が聖霊の賜物をくださる時に私たちに触れられたなら。神様が決められた時間にです。私たちは今願われるのに何故神様はくださらないのか?そうではないのです。神様が決められた時間を私たちは待たないといけません。神様が決められた時間に来られたら私たちの信じたことは信仰に変わります。能力が生じます。そして魂の苦悩が一瞬で消え去ります。それで私たちはその丘をひとっ飛びに越えていかなければなりません。


イエスはどのように語られましたか?
からし種程度の信仰があればあなたは山をも動かすことができる能力が生じるだろう。その小さなからし種程度の信仰が山を動かすことができるのか?何故でしょうか?それは私が作ったものではないから。信じることは私がしないといけないことですが、信仰は神様がくださる賜物です。からし種ほどの小さな信仰の賜物でも巨大な山をも動かすことができる驚くべき能力だということに気づいてくださることを願います。


神様は わざと私たちの弱いところを開かれようとします。私たちは現代社会に生きているので、ちょっと何か不便なことがあれば、そこから早く避けたいし、他のところで行きたいと思います。そうでしょう。 Ipedがちょっと不便だとあ~これはだめだだめ。カカオトークもちょっと遅いとあ~ダメダメ。そうでしょう?早く早く早くと。あ~このプログラムは面白くない、他のもの、あ~これも面白くない。他のもの、他のもの、こんなぐあいです。


神様が私たちの弱点を見せてくださる時に、私たちは魂の苦悩があったときに、あ~いやだ。早く過ぎ去ろう。早く解決しようとするでしょう。
しかし、その瞬間にも神様はわざと私たちの弱点をあからさまにされようとするのです。私たちはそこで待たないといけません。とどまっていないといけません。
その弱点を見ないといけません。その弱点を見れば、神様が私たちに啓示を下さる時間になるかもしれません。啓示、感動、信仰の賜物、知恵を下さる時間。
神様の願われる意思を悟れる信仰の賜物を受け取れることでしょう。


天聖経を読みましょう。
私たちが精誠を捧げるときは絶対信仰の位置に入らないといけません。神様と神様の摂理に絶対信仰の位置に入らないといけません。その位置に入ってこそはじめて神様が役事されるのです。(韓国語直訳)


私たちが精誠を捧げるときは絶対信仰の位置に入らないといけません。しかしどのように入って行ったらいいのでしょうか?皆さんの能力で入れません。そうでしょう?私たちの能力では入って行けません。私たちは信じてついていきますが、神様の神霊が私たちに触れたときに入れるようになります。私たちは信じてドアをノックし続ければ神様がドアを開けて受け入れようとされる瞬間があります。ドアを開けて入れと言ってくださる時がきます。そのときに私たちは信仰に入っていけるのです。そのとき、神様は役事されるのです。アージュ


祈祷しましょう


ハナニム・アボジ、アボジ、カムサハムニダ。アボジ、カムサハムニダ!アボジ、カムサハムニダ!今日、私たちに大きな悟りをくださり、私たちは今まで신앙(信仰)でない、믿음(信じること)で生きてきましたが、これからはあなたからの賜物である신앙(信仰)で生きていきたい者たちに生み変えてください。


アボジ・ハナニム、私たちはこれからはあなたが頼ることができる孝子孝女になれることを願います。


アボジ・ハナニム、これからは新しい段階、新しい次元、あなたと共に聖霊が充満した人生を、霊的五感が開かれた人生を歩んで行きたいです。


アボジ、信じる者でなく信仰を受け取れる者になれるように許諾してください。
アボジ・ハナニム、あなたが決められた時間で今や食口一人ひとりが、毎週10名、100名、1000名が目覚め、あなたの元に帰ってきています。


アボジ・ハナニム、しかし魂の苦悩が生じるとき、私たちによらず、私たちの믿음(信じること)によらず、ドアをノックしながら、あなたが決められた時間に、アボジの信仰の賜物を、能力の賜物を許諾してくださるならば、私たちはまたあなたの元に帰り、また天一国基元を始めることができる残った信仰者になれることをはっきりと知っております。


アボジ・ハナニム、私たちを導いてくださり、そして今は去って行った者達の心情に入って行かれ、一人ひとりを目覚めさせてくださる役事を見ながら、感謝と全ての栄光と喜びをあなたにお返ししながら、祝福中心家庭の名前であなたに全ての感謝を捧げながらご報告いたします。アージュ、アージュ、アージュ、


さぁ、立ち上がり隣の方を激励してください。信仰を受け取ってください。アージュ。


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